町人が往来を歩くときは必ず道の左端を歩いた。
威張りかえって道の真ん中を歩くのは、田舎から来た武士たちだけだった。
往来は、その七分が公道であり、
自分たちが歩くのは、端の三分という暗黙の約束があったのである。
何故、道の中央を空けておくかというと、それは緊急事態のためだ。
火事が起こって火消しが走ったり、怪我人を戸板に乗せて運んだり、
飛脚が走ったりするために道を空けておいたのである。
このしぐさを忘れて、真ん中を歩くと、
それは「とうせんぼしぐさ」と言われ、お年寄から注意を受けた。
往来は天下のもの。
後ろから来る人の迷惑を考えず道をふさぐように歩くのは、
厚顔無恥も甚だしいというわけである。
江戸は、十八世紀には世界で最も人口が多い100万人都市に成長していて、
上流武家の町は広く、通りも広々としていた。
しかし、江戸の人口の半数である50万人の町民は、
江戸の町の15%しかない広さの居住地に暮らしていた。
狭い町、狭い家にギュウギュウ詰めになって生活していたのである。
その町人が、武士を含めた江戸の町を支えていた。
全国から集まる物資はまず町方の各問屋に運ばれ、
そこから江戸の町に供給されていった。
交通の面においても、町の混雑ぶりが相当なものであったことがうかがえる。
七三歩きのような交通ルールは不可欠であった。
阪神・淡路大震災から19年が過ぎた。
関東から西の太平洋岸では、東海、東南海、南海大地震が
いずれ(近い将来)来るといわれ、
災害対策があちこちの自治体で検討されている。
都内の主な幹線道路は、災害時に緊急車両を優先して通すために通行止めになる。
江戸の町では、その頃から災害対策としての交通マナー、ルールがあったのだ。
当時より人口、交通量ともはるかに多くなっている都市部では、
日頃からの交通マナー、ルールの厳守が不可欠のはずなのだが、
おそらく江戸時代よりも現代のほうが傍若無人な輩は多いだろう。