儒教の教えが行き渡っていた江戸の町では、それぞれの年代に応じたしぐさがあった。
孔子の教える年代の分け方とは、
15歳は、志学(しがく)といって、何をするのか志を立てるとき、
30歳は、而立(じりつ)といって、仕事で独立するとき、
40歳は、不惑(ふわく)といって、何事にも惑わないとき、
50歳は、知命(ちめい)といって、人生をしっかりと分かるとき、
60歳は、耳順(じじゅん)といって、耳にすることはすべて理解できるだけの
教養を持つときとされていた。
江戸の人たちには、この年代に応じてさまざまなしぐさがあった。
歩き方ひとつをとっても、
志学の人は速歩を旨とし、而立の人は左右に注意しながら注意深く歩く。
歳をとるごとにゆっくりゆったりと歩くのが基本だった。
60歳以上になると、人生の先輩として、毎日を楽しくはつらつとして生き、
年下の人に注意だけではなく、ユーモアを持って接した。
年長者には敬意を払い、自分の年代にあった振る舞いをすることが基本だ。
江戸時代後期、成人できた人の死亡平均年齢は、男女とも60歳くらいであった。
その年齢まで隠居しないで生活していたら、なかなか子供が活躍する場がない。
そんなわけで、ゆとりがある商人であれば、
自分に孫ができたころ息子に家督を譲って、表から引退し、隠居の身となったようだ。
ご隠居さんというと老人の姿を思い浮かべるが、
実際に早々と隠居を宣言した者も少なくなかった。
松尾芭蕉は、37歳のときに仕官を退き、隠居の身になって全国を歩いた。
伊能忠敬が隠居して私財を投じて北海道と東北地方の測量を始めたのは
56歳のときであった。
このように隠居後の生活を第二の人生として花咲かせた者もいたが、
一般的には、町の世話役として存在した。
儒教の世の中だから、健康で身体を動かせるうちは働くのが当然であって、
町の番所に務める老人も多く、大八車の駐車の取り締まりや
酔っぱらいの世話などをしていたという。
99歳のお兄さんも大切にしましょう