銀座から 晴海通り を東へ進むと、歌舞伎座 のある東銀座。
さらに進むと、右側に 築地市場 があり、
外国人観光客を含め、多くの人で賑わっている。
架橋当時は、1日5回20分ずつ
橋の中央部が電力によって二つに割れて跳ね上がり
3000t級の船が通れた東洋一の可動橋だった。
橋の中央部が電力によって二つに割れて跳ね上がり
3000t級の船が通れた東洋一の可動橋だった。
勝鬨橋の上も都電が走っていた。
現在では晴海通りの交通量が増え、
昭和45年(1970)12月を最後に開閉されていない。
昭和45年(1970)12月を最後に開閉されていない。
現在の 勝鬨橋
浅草から隅田川を下って
お台場 へ行く遊覧船が通る。
月島 は、明治25年の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づき、
東京湾からの土砂を利用して埋め立てられた
月島1号地(現在の月島一丁目から四丁目まで)として完成した。
ちなみに月島2・3号地は勝どき、月島4号地は晴海である。
当時の月島地区は、富国強兵の国策に沿い鉄工業地帯とされ、
石川島播磨重工、月島機械などの重工業メーカーの発祥の地でもある。
また月島の名前は「築島」の字を変えたものといわれている。
広義では、現在の住居表示で佃、月島、勝どき、晴海を含む島をいう。
地図の左側を縦に走っているのが 晴海通り で、上が銀座方面、下は晴海、
中央を縦に走っているのが 新富晴海線 で佃大橋が架かっている。
新富晴海線の右側が 佃島 。
新富晴海線は西銀座から新富町を通って晴海へと続く。
月島を横に走っているのが 清澄通り で、
この2本隅田川寄りに通称 もんじゃストリート がある。
この辺りが 東京の下町 といわれている所。