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江戸しぐさ『刺し言葉』

相手に敬意を払って互いに助け合って生きようとしたのが江戸の精神。

当然、言葉使いも丁寧になる。

江戸のいわゆる「べらんめえ口調」といわれるのは、

江戸下町の仲間言葉で年長者に対しては、語尾に敬語を入れて使った。

ところが、なかには人をいらつかせたり、チクリチクリと嫌味な言葉を吐く者がいた。

こういうタイプは嫌われたのはもちろんだが、

そのような感情を逆なでするような言葉を『刺し言葉』といい、

使わないのが江戸しぐさだった。


同様に、重箱の隅をつつくような言葉も刺し言葉とされ、

そのような指摘の仕方はやってはいけないこととされていた。

商人の場合、客から刺し言葉を投げかけられても

ジッと我慢をしなければならなかった。


嫁姑の関係でも刺し言葉は控えるのが江戸しぐさだったが、

この関係は今も昔も同じようである。

嫁姑の関係は、収拾がつかなくなると刺し言葉の応酬になることがあった。

そんなことがないよう嫁入り前の娘が心得ておくべきことを書いたのが

江戸中期に生まれた『女大学』という書物だ。

十九条からなる女大学は、第一条からいきなり

「女子は成長して他人の家へ行き、舅姑に仕える者」とされている。

女性の親に対しても寵愛し自由に育てれば、

嫁ぎ先での舅姑問題で大変になるぞと脅している。

女大学では、夫に対しても慇懃にへりくだって従順でいるように説いている。

その家庭内の力関係が川柳に詠まれ

「恥ずかしさ 悔しさ嫁の 無実の屁」

などがある。

嫌な出来事があると、立場の弱い嫁にそのしわ寄せがいったのであろう。


武家では、どんなにいじめられても

基本的には女性から離縁を申し出ることはできなかった。

夫は女性に一方的に「三下り半」と呼ばれる離縁状を出せば離婚できたが、

女大学では、一度嫁に行ったらその家にずっといることが女の道だといっている。


町人の場合、女性から離縁を切り出すことは珍しくないことだったが、

女大学の考え方が広まると、

それをすることはいけないことと考えられるようになった。

しかし、離縁しなければ幸せになれない悪縁に苦しむこともある。

このような女性にとって唯一の救済手段となったのが縁切寺である。

江戸の近郊では鎌倉の東慶寺が有名で、

徳川ゆかりの天秀尼(てんしゅうに)が

「開山以来の寺法が断絶することのないように」

徳川家康に頼んで縁切り手法が定められた。

縁切寺に駆け込めば離縁できたが、再婚後にまた縁切寺に駆け込んでも

今度は離縁することはできないという決まりがあった。




人をいらつかせたり、嫌味な言葉を吐く人、重箱の隅をつつくような人は

昔から嫌われていたのですね。

言っている当人は案外気が付いていないことが多いのではないでしょうか。

気が付かないから言える。

でも気が付かなくては周りはいい迷惑です。


江戸時代の女性、とくにお嫁さんは大変だったんですね。

「嫁は舅姑に仕える者」などという考えが蔓延っていたら

現代では結婚する人がいなくなってしまうでしょう。

家政婦然としか見ていないのですから、嫁の人格など無いも同然。

朝から晩まで家の中のことをして、舅姑がボケたら介護もしなくてはなりません。

嫁に行ったが最後、自分の人生は無い物となってしまいます。

『男尊女卑』にも程があります。

そんなお嫁さんも自分が姑になったら息子の嫁に対して同じことをさせるのか?

ちょっと疑問に思ってしまいます。

あげくに女性からは離婚を申し出ることができないなんて

江戸時代の女性にとっては、結婚=地獄です。


世の女性の皆さん、江戸時代のような風潮がなくて良かったですね。

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