武家と農民、町人がきっちりと分けられていた。
ところが、江戸も後期になると、経済の発展から町人の力が強くなり、
武家の権威が落ちてきた。
そんな社会になると、身分制度にこだわらない風潮が生まれた。
例えば、銭湯などでは、たとえ武士でも町人と同等の扱いを受けた。
湯船では、武士と町人が普通に喋った。
もちろん町人は武士に対して敬語を使って喋っていたが、
そこには身分制度で威張りかえるという武士の姿はなかったし、
下の身分である町人たちも、武士におもねることはなかった。
また、さまざまな塾や講などでも、武士と町人が同じ机を並べて研鑽した。
こういう場所では、年齢も職業も地位(身分)も何も聞かなかったのである。
これを「三脱の教え」といい、人間として対等に付き合おうという姿勢をさした。
士とは武士のことで、支配者階級とされたのだが、
平和な世の中が続くと武士の仕事は少なく、
特権階級を維持していくのは難しい。
江戸で生活する一部の武士を除いては、生活も大変だった。
暮らしていくために甲冑を質に入れてしまう者もいた。
階級が上の武士でも、着る物や相手への礼儀が決められているから、
体面を保つために何人もの奉公人を雇わなければならず、
気楽な暮らしとはいかなかった。
それに対して町人は、経済的に力をつけ、文化の発展の中心を担った。
着る物に気を使い、髪型にも流行があって二百を超える髪型が誕生した。
男性のひっつめ髪は武士、
まげをいなせにずらして結うのは火消しや魚河岸の男衆、
結わずになでつけにするのは医者、学者、易者などと
職業もひと目で分かるようになった。
こうして身分制度は、見かけ上のものとなったのである。
武士を除く江戸の人口は、
寛永年間(1624~1644)に約15万人といわれていたが、
享保十年(1725)には、約53万人に増え、
旗本、御家人、大名などの武士約50万人を加えると、
100万人を超える一大都市となった。